4

 喝采は、起きなかった。
 歌を耳にした全ての者が、身動き一つもできずに、ただ、滂沱と涙を流していた。
 これ程の音楽を今生で耳にできた幸福にか、それとも、生涯で最も幸福な時間が終わりを告げた事への悲しみにか。
 ……女神カリオペは竪琴を手に、舞台の片隅へと目を向けた。そこには凍りついたように動かない、九人の娘たちの姿がある。
 美しい顔は蒼白となり、見開かれた瞳は目の前におわす、神々しい輝きを纏いし玲瓏(れいろう)たる女神を見つめていた。
 この場にいる誰よりも、彼女達こそがまさに、カリオペの歌に深く深く魂を囚われているかのように。



「あなた方が、マケドニア王の姫君達ですね」

 女神が口を開いた。
 話す声さえ、一つの音楽のように麗しい。
 カリオペは彼女達を、ピエリスとは呼ばなかった。
 底知れない威厳を湛えた言葉は、けれどどこか、母が娘に問うような慈愛をも秘めている。

「……あなた方が勝てば神泉を、私達が勝てばマケドニアの地を、それぞれ引き渡す約束でしたね」

 姉妹達の前にいた、最も美しい娘の指先が、小さく戦慄く。

「神泉は神々の持ち物、人の手に渡って良いものではない。それを、未だ望むというのですか?」

 叱責する事も、諭す事も、責める事もせず、女神はただ静かに問い、静謐(せいひつ)な瞳で、九人の歌姫達を見据えた。
 ……姉姫は、形の良い唇を噛み締める。

「いいえ……」

 それは彼女が生まれて初めて口にした、自らの敗北を認める言葉だった。
 認めずにいる事など、できようはずもない。許される、はずもない。
 それほどの歌だった。それほどの声だった。
 一つの歌、一つの音楽のみで、女神カリオペは人の身で神と競おうとした愚かさを、完膚なきまでに娘たちに知らしめた。
 歌神ムーサ、誇り高いその名に相応しい手腕をもって。
 どんな矜恃(きょうじ)も、彼女が見せたものの前では意味をなさない。
 いかに美しくとも、素晴らしいと讃えられようとも、どれだけの者に認められようとも、所詮は人の世界のもの。
 比べる事すら、最初から許されはしなかったのだ。
 ……女神の瞳に、微かに、憐憫の色が混じる。

「あなたがたの才能は、生まれし時より、私達によって与えられたもの。それを忘れてはいけなかった」

 後ろにいた娘達もまた、その言葉に、身を震わせた。
 愛らしい風貌も、人智を超えた女神の美しさの前では、萎れた花のようでしかない。
 彼女達がいつか、名も知らぬ詩人を笑ったように。
 あれほどに自信に満ち満ちていた瞳の輝きも、今はもう失せていた。

「のみならず、人の身で神の財産を奪い、あまつさえ自らが神を名乗ろうなどと、許される筈がありましょうか?」

 娘達の表情に、怯えが混じる。
 自らの愚かな望みが、全て女神に筒抜けている事を知り、今やちっぽけな、ただの娘でしかなくなった彼女らは、畏怖と慙愧(ざんき)の念とに身を縮こまらせた。
 最初から、敵う相手ではなかったのだ。否、勝負を望む事すらもが、身の丈に合わぬ望みだった。
 手の中の宝が他者から与えられたものだという事を忘れ、あまつさえ、それをもって手の届かぬものをあがなおうとした。それは許される事ではない。
 カリオペの瞳は、そんな彼女達から逸らされる事はなかった。
 それまでどこか柔らかだった声音が、厳しいものと変わる。

「神々はお怒りです。あなたがたは、自分の犯した過ちを償わなければなりません」

 己の罪を自覚しながらも、下されるだろう罰に怯え竦む王女達の前で、一人の娘が地にかしずいた。

「……承知いたしました。女神カリオペよ」

 静かな声が舞台上に響く。ふわりと広がったドレスがベールのように、彼女の身を幾重にも包みこんだ。
 女神の前に腰を折りながらも、王女の気品を失わぬ優雅さで、ピエリスの長姉は毅然(きぜん)と顔を上げる。
 その様を見て、息を飲んだ他の王女達もまた、姉に倣(なら)うように頭を下げた。

「確かに、私達の望みは、分不相応なものでありました。さぞや愚かな振る舞いと思われました事でしょう」

 揺るがぬ声で、王女は語った。

「今更、言い訳は致しますまい。私達の歌など、芸術の根源たる女神がたに比べれば、取るに足らぬものでありました。不遜なるは重々承知、なれど」

 再び深く、人の歌姫は頭を下げた。
 美しい髪が、さらさらと揺れてその顔を隠す。

「……こうして女神と競う機会を得たこと、生涯の誉れとし、後悔などは致しません。どうぞ如何様にも、この傲慢な我が身に罰をお与え下さい」

 それが代償だというのならば、甘んじて受ける、と。
 膝を折りながらも、心までは屈さぬ娘は、言う。

「わかりました」

 その様に同情を示す事なく、女神は頷いた。

「ひとつ、罰を与える前に問いましょう。あなたがたの一番の望みとは、一体何だったのですか?」

 名声か、尊敬の眼差しか、神と肩を並べる栄誉か、それとも。
 ……娘達は、黙して答えない。
 カリオペは頷き、静かに口を開く。

「その答えは、あなたがたの心に訊く事にいたしましょう」

 女神はそっと、白くほっそりした手を弦に置くと、さらりと音律を奏でた。
 短い音階は、優しくやわらかく、周囲に広がってゆく。
 春風のように暖かく澄んだ音色に、人々は総じて心を奪われた。
 その瞬間――。
 舞台の上から九羽の鵲(かささぎ)が、翼を広げて一斉に飛び立った。鳥は白と黒の両翼を広げ、甲高い鳴き声を響かせながら、それぞれに空へと散ってゆく。
 そして人々が気付いた時には、九人の王女の姿は、舞台のどこにもなかった。
 大空のどこからか、鵲たちの発する、乱れた和音だけが届く。



「罪には報いを。自惚れには罰を」

 輝くような衣と光を纏い、厳かに立つ女神は、歌うように言った。
 その美しい眉が、ほんのわずかに形を歪ませる。

 ――愚かな、とても愚かな。
 天の頂を目指せると思い上がった、けれどそれでも純粋だった娘達。
 彼女達は、誰よりも高い場所で歌いたかっただけ。
 たとえそれが、神の名の元に、許されぬ行為であったとしても、諦める事はかなわなった。それほどに愚鈍で、真っ直ぐな。

 ……手に携えた竪琴をそのままに、カリオペは再び、形良い唇を開く。
 伴奏などなくとも、この世のものならぬ美声で形作られるそれは、もう他に何も必要としないほど美しい。
 朗々と響く歌声は、先程の、大地母神の愛と悲しみに彩られた歌とは、全く違っていた。
 まるで大空を舞う小鳥のように自由に、奔放な旋律が彼方まで響き渡る。そしてそれに応えるように――どこからともなく、鵲達の奏でる高い和音が、唱和した。
 それはもう無様なだけの啼き声ではない。
 力を持たぬ小鳥達が、小さな翼を精一杯に広げて歌う、確かな歌だった。
 片手を掲げるように広げ、歌声を響かせる天上の歌姫に、眩い光が降り注ぐ。
 そして女神に敬意を示すように、周囲に舞い降りた九羽の小鳥は、長い尾羽を振りながら、飽く事なく合唱を続けていた。



 花園に、甲高い啼き声が木魂する。
 色も形も様々な花々に囲まれた楽園で、笑いさざめいていた娘達は、もういない。
 その代わりのように、高く囀る鳥達の歌声は、途切れる事もなく、いつまでも、いつまでも響いていた。


1. Pieris <完>


前頁へトップ頁へ