飛沫を上げる白波を力強く切り裂くように、一艘の船が大海原をゆく。
その周囲一帯に陸地らしきものは一切見えず、水面に落ちるのは巨大な船と、頭上を飛ぶ鳥の影のみ。
船体に刻まれた名はArgo――船大工の名匠から銘を譲られたその船は、力強くも優雅に波の狭間を掻き分け、道なき道を進む。
一見すれば、優美ともとらえられるその姿。
けれどこの船、アルゴー号は、どんな荒波にも嵐にも、決して屈することはない力強さを秘めている。
名匠アルゴスの造り上げし最高傑作にして、アルゴナウタイと呼ばれる英雄達を乗せるに相応しい、神秘の船驥(せんき)である。
その船室に、今、一人の青年がたたずんでいた。
否、青年と断言するには些かの語弊があろうか。少年とも青年ともつかない、その過渡期にある人間特有の、ある種のアンバランスな空気を、淡い衣のように彼はまとう。
更には涼やかな目元と、すっと通った鼻梁、形良い唇と白皙の肌。その美貌は誰しもが息を飲むほどである。
しかしそれに頓着した様子は微塵も見せず、船室の窓から外を眺めながら、彼は己の髪を、無防備に潮風に乱されるに任せていた。
この船に乗船を許された以上、彼もまた、世界から呼び集められた勇士の一人に他ならない。
けれど、丈の長い衣に包まれた体躯はすらりと細く、その姿はどう見ても、無骨な戦船より典雅な宮廷の方が、よほど似つかわしく思えた。それは携えた持ち物にしても同様であり、彼の手に抱えられているのは、歴戦の戦士に相応しい剣(つるぎ)でも、斧でもない。
人の手によるものとは到底思えぬ、まるで一つの芸術品の如く繊細な装飾を施されたそれは、美しくはあるが、およそ戦いの役には立ちそうもない、一張の竪琴だった。
彼の名は、オルフェウス。
その外見の示す通り、彼は戦士ではない。しかしオルフェウスは、その年にして既に、どんな英雄にも劣らない程の名声を背に負っている。
彼の武器と言えるものは、鍛え上げられた鋼の剣でも、どんな物をも容易く貫き通す槍でもなかった。
それは手にした竪琴であり、そして至上の美声を紡ぎ出す、彼自身の喉でもある。
たとえオルフェウス自身の歌声を聴いた経験を有さずとも、天上の調べと称されるその評判を、耳にした事のない者は数少ない。一説によればその名声は、人の世界に留まらず、遙か神々の国にまで轟き渡っているという。
とかく美しいもの、優れたものに目がない神々の事であるから、名高い吟遊詩人であるオルフェウスに無関心でいられないのは頷ける。だが裏を返せば、それは即ちこの青年が、神に認められるに相応しいだけの才覚を備えているという事に他ならない。
だがそれも、彼の出自を思えば当然とも言えた。
オルフェウスの母の名はカリオペ――他ならぬ、音楽と芸術を司る女神の一柱である。
ひとたび彼女が歌を口ずさめば、どんな場所でも楽園に変わり、焦土すら一瞬にして花で満ちると言われる麗しの歌神。
偉大な女神を母に持つ彼は、生まれながらにして、あまねく音楽の才能に愛される資格を持っていた。
カリオペと人の国の王オイアグロスの間に生まれた彼は、半身に神の血を引いてはいても、その眷属ではない。
しかしこの船に乗り合わせた、他の半神と呼ばれる存在と同様に、オルフェウスの中には単なる人の身では到底持ち得ぬ神力が宿っている。
オルフェウス自身、それを正しく理解し、この世に自分以上の歌い手は存在しないであろうと自負していた。
それを驕りと、快く思わぬ者もいるだろう。
けれどオルフェウス当人にとって、それは思い上がりなどではなかった。
今回の冒険に参加した目的は言わば、それが事実である事を証明する為でもあった。己の歌に、英雄の剣に劣らぬ力がある事を。
オルフェウスは視線を上げ、晴れ渡った空を見上げた。
船乗りの一人が言っていた通り、今日は快晴に見舞われ、世界は見事な水天一碧の様相を呈している。
潮風の中、はしゃぐように舞う風の精霊の姿を見て、オルフェウスは目を細めた。
本来、彼らのような力の弱い精霊が、人の目に止まる事は難しいが、半分とはいえ神の血を引くオルフェウスにとっては労もない。
半ば無意識に、ほっそりとした指先が動き、一つ、二つと、竪琴の上で音を爪弾く。
軽やかに踊る乙女達と同じく、吹き抜ける海風を思わせる軽やかな音色。
神から降された竪琴は、強く潮を含んだ風に晒されても全く傷む事はなく、澄んだ音を響かせる。
その時、誰かの手に背中を思い切り叩かれて、オルフェウスは軽く咽込んだ。
「よう、優男。何、一人でしけた顔をしてるんだ」
振り返ったオルフェウスの目と耳に、屈託のない笑顔と、太い声とが飛び込んで来る。
波と共に風にたゆたうような、穏やかな一時を邪魔された彼は、迷惑そうに顔をひそめた。
「別に、しけた顔はしていないよ。僕が望んで一人でいるとわかってるなら、邪魔はしないで欲しいな」
何か用、と明らかに邪険に扱われても、相手は気にした様子もなく、面白そうに眉を上げただけだった。
男の名はヘラクレス。
見るからに筋骨隆々とした肉体と、太陽のように輝く黄金の髪を持った彼は、おそらくは、この地上において名を知らぬ者はいないであろう、正真正銘の希代の英雄である。この船に乗り込んだアルゴナウタイの中でも、おそらく筆頭に挙げられるであろう最強の戦士だ。
だがオルフェウスよりも、軽く頭二つ分は上の位置にあるその顔に浮かんだ笑みは、まるで子供のように邪気がなかった。
「そいつはすまなかった!」
今度は力強く肩を叩かれて、彼より数段細いオルフェウスは、その場に崩れそうになる。
相手の顔に悪気はなく、どうやら先程の行為も今も、ヘラクレスにとってはあくまで軽く叩いた、という認識でしかないらしい事は窺い知れた。
そのたくましい体つきといい、豪放な性格といい、彼が英雄の名を冠する事に異を唱える気は毛頭ないが、自分を基準にものを考えるのだけは止めて欲しいと、オルフェウスは憤然とする。
その時、部屋の片隅から笑いが上がった。
声の高さから、それを発した相手が女性であるのは明らかだったが、しかしその声は、今までオルフェウスが目にしてきた、宮廷の貴婦人がたの零す小さく気取ったものとは程遠い。
明け透けで高らかな笑い声は、先程のヘラクレスのそれと、質を同じくするものだった。
「馬鹿だね、あんたがそんな馬鹿力で叩いたら、そんな細っこい坊やなんか、ぺちゃんこになっちまうよ」
自分の体格を馬鹿にされた気分になり、さすがに面白くないオルフェウスは、視線をきつくし相手を睨む。
だが彼女の目は、可笑しそうに細められているだけだ。
椅子に腰掛けた彼女の傍らには、長い弓が立てかけられ、すぐ手の届く場所には矢筒がある。
その体には引き締まった筋肉が綺麗についており、女性ではあっても、少なくとも傍目には、オルフェウスより数段頑強そうだ。それを見れば、先程の彼女の言も、無理ない事と言わざるを得ない。
月と狩猟の女神アルテミスの加護を受ける女狩人アタランテ、彼女もまた、認められてこの船に乗り込んだ、アルゴナウタイの一人である。
王家の血を引く由緒正しい姫でありながら、父王に疎まれて野に捨てられ、獣の乳で育ったという、一風変わった経歴を持つ。
もっとも、この船の上ではそれすらも、珍しい話には入らない。
「このくらいで壊れるほど柔じゃない」
言いながら、オルフェウスは心外そうに肩を払う。
「おや、そうかい?」
それならいいんだけどね、と気を悪くした風でもなく笑って、アタランテは半分ほど中身の残った杯を、軽く煽った。
それから、空になった器を卓に置く。
「しかし、見事なものだね。私も王宮で多くの楽士の歌や竪琴を聴いたけれど、あんたの紡ぎ出す音色は、そのどれよりも美しいって事はわかる」
オルフェウスは、少し顔を上げた。
さすがにそこは、女性故の繊細さのなせるわざか、それとも、曲がりなりにも王女という事なのか。
曲とも言えない、たったあれだけの音色を聴いただけで、アタランテはオルフェウスの奏でる音色の価値を見抜いたようだった。
そこにまた、異なる声が一つ混じった。否、正確には二つ。
「そうだね」
「オルフェウスの紡ぐ音は素晴らしい」
突然、窓の外から舞い降りてきたその影に、しかし誰も、驚いた顔一つ見せない。
ばさりと、鳥のはばたきに似た音がこだまする。
「すごいね、オルフェウス」
「君の音に乗せて、風が嬉しげに踊っているよ」
重なる声は、まるで同一のそれと見紛う程によく似ている。
大きな窓に腰掛けた影は二人分。
並んで座った彼らの面差しは瓜二つで、一目で血の繋がりがあると知れる。だが、それ以上に目を引くのは、それぞれの背中に広げられた、灰と白の翼だった。
彼らの名はゼーテスとカライス、北風ボレアスと魔物ハルピュイアの息子である。風の化身たる彼らの顔にもまた柔和な笑みが浮かんでおり、成程、その言葉は嘘ではないのだろうと伺えた。
「ねえ、オルフェウス。あれで終わり?」
「乙女達も、まだ聴きたいと言っているよ」
「君の音に乗せて踊りたいって」
以心伝心しているように、彼らは二人で、一人分の言葉を喋る。
「ああ、それはいいね。私も聴きたいと思っていたところさ。さっきの続きを是非頼むよ」
アタランテが、矢の手入れをしていた手を止めて所望した。
「……僕を、場末の酒場の吟遊詩人などと一緒にしないで欲しいんだけど」
オルフェウスは眉を吊り上げて言った。
幾つもの国を渡り歩き、高貴な人々の前で腕前を披露してきた自分の喉は、そう安いものではないと。
そんなオルフェウスの肩を、再び大きな手が叩いた。
「まあ、よかろうよ。実を言えば俺も、噂の天の声とやらを聴いてみたい」
「だから、気安く叩くのは止めろと……!」
「あぁ、すまんすまん」
岩を転がすような音を立てて、大男が笑う。
そんな彼らを前に、調子が狂うとばかりに、オルフェウスは嘆息した。
……正直に言えば、彼は戸惑っていたのだ。
自分の言動や振る舞いが、他人に好かれ易いものではない事は、オルフェウス自身、承知している。
それは彼自身の生来の性格と、生まれ育った環境によるところが大きい。
こうして他人と共に過ごすという事に、オルフェウスは慣れていない。