4

 森の中を、一人の青年が歩いている。
 澄み切った小川のせせらぎと、時折吹くそよ風が、心地好い合奏となって、その周囲を包んでいた。
 暖かな木漏れ日が、彼の衣や髪に影を落とす。
 けれどそれら全てが、もはや彼の心に届く事はなかった。
 青年の心臓は、真冬の湖よりも更に冷たく凍え果て、永遠に溶ける事はない。
 宝石のようだった双眸に光は灯らず、視線は茫洋(ぼうよう)と宙を漂うのみ。




 ――オルフェウス。

 どこからか、囁くような呼び声が聞こえた。
 ついで、くすくすと小さく笑う声。

 ――ねえ、何をしてるの? オルフェウス。

 それは川に住むニンフ達の囁きだった。以前からその麗しい詩人の噂を伝え聞いていた彼女らは、一人流浪する青年を見かけ、嬉々として誘いをかける。
 川の流れに身を置くニンフの姿は、普通の人間であれば、一目で魂を奪われても不思議はないほど美しい。
 しかし歩き続けるオルフェウスは、彼女達に、一瞥(いちべつ)すらもくれる事はなかった。

 ――オルフェウス!

 自分達の言葉を耳に入れようともしないオルフェウスを見て、ニンフ達の声に怒りが混じる。
 自らの美貌を誇る彼女達にとって、詩人の態度は、ただ侮辱としか映らなかった。

 ――オルフェウス、ねえ! 歌ってよ。
 ――あなたの歌を聴かせて。
 ――そうしたら、あなたのものになってあげる。

 甘美な誘惑も、果てぬ絶望に取りつかれた青年には届かない。希望もなく、目指す場所もなく、彼は身を引きずるようにして歩き続ける。

「……ておいてくれ」

 形良い唇から、微かに言葉が洩れた。

「放っておいてくれ……」

 この世に存在する、どんな素晴らしいものも、今の自分を引き戻す事などできはしない。

「僕はもう、何もしたくない」

 あの小さくて華奢な体を抱き締める以外のことは。

「何も見たくない」

 愛情と希望を湛えて生き生きと輝く瞳以外のものを。

「何も聴きたくない……」

 春を告げる小鳥のように歌う声以外の何も。

「エウリュディケ……」

 己の生から、太陽は姿を消した。
 あの日以来、食べる事も、眠る事もできない。もうどうやってもこの手には戻らない姿を求めて、終わりのない大地を幽鬼のように彷徨うのみ。
 果てもなく慟哭した喉は枯れ果て、その手に持つのが何であるのかすらも忘れ。
 悲しんで、悲しんで、悲しみすらも尽きて、今はもう、その体は空っぽの器に過ぎない。誘いをかけてくる甲高い乙女の声も、今や耳を煩わす雑音に過ぎなかった。
 小川に背を向け、オルフェウスは、その場を立ち去ろうとする。
 かつてその胸を満たした音楽に背を向け、死と等しい静けさを求めて。
 その足を、誰かが掴んだ。

 ――オルフェウス! 許さない。
 ――私達を辱めたね!

 先程まで甘く囁きかけてきた声は、怒りと恥辱に染まり、鞭のようにオルフェウスを打った。だがそれすらも、今の彼にはどうでもよい事だった。
 四肢に絡み付く腕が、彼を水底へと引き摺り込む。
 ごぽりと呼吸の途切れる音が、オルフェウスの耳に響いた。
 それが自らの生の終わりを示す音だと、彼は気付かなかった。
 ただ、その後に続く永遠の静寂に、ようやく、求めるものを得たように、目を伏せる。
 何も考えたくない。
 彼女の声がもう、この耳へと届く事がないのなら、ずっと、この無音の絶望の中に身を沈めていたい。
 彼の願いは叶えられた。







 川べりに、一人の女神がたたずんでいた。
 幾千の叡智を宿すその瞳は、しかし今は悲しみに沈み、伏せがちに地面へと向けられている。
 不意に水面が泡立ち、そこに、一張の竪琴が浮かび上がった。
 黄金の装飾を施された楽器は、唯一の主人を失った今になってさえ、なおも輝き鈍らず光を放つ。
 女神は、悲哀に満ちた瞳でそれを見つめ、そっと竪琴に手を伸ばした。
 彼の感じた喜びも幸福も、全てを知り、雄弁に奏で続けた唯一のもの。それは最後に、悲しみと絶望とを歌い上げ、そして永久に沈黙した。
 女神はいとし子にするように、竪琴を抱き、細い指先でそっと撫でる。
 それでも、そこからは、何の温もりも伝わりはしなかったけれど。

――ああ……」

 開かれた唇から、たぐいまれなる美声が零れ落ちた。
 それを聴く者が、もしもその場にいたとしたら、その眼窩からはひとりでに涙がこぼれ落ちただろう。
 女神の麗しい声はただ、底知れぬ深い悲しみに染まっていた。

「オルフェウス……!」

 竪琴を抱いて、女神は膝を折る。
 柔らかな下生えが、そのか細い体を受け止めた。
 たとえ一目たりとも会えずとも、彼女はいつでも我が子を気にかけ、想っていた。
 けれど女神の愛した子は、もうどこにもいない。
 絶望に囚われて、その命は、泡のように消え失せた。
 彼女は、まるで胸に抱えた竪琴が、我が子そのものであるかのように、いつまでも、それを撫で続ける。
 ……白い指先に、宝石にも似た雫が落ちた。
 滑らかな曲線を描く頬を、一筋の涙が、静かに伝う。
 声もなく竪琴を抱き締めた女神の、美しい涙を知る者は、誰もいない。
 密やかに零れ落ちたそれの代わりのように、竪琴を伝う水滴が、太陽の光を反射して、まばゆく煌いた。



 彼は愛用の笛を手に、頭上を見上げる。
 オリュンポスの稜線を臨む紫紺の夜空に、宝石をちりばめたようにきらめく、幾多の輝きを。
 神々の目に適った一握りの人々が、そうして天に召し上げられ、星となって空から下界を見下ろしている。
 その中に、今、彼の弟もいるのだろうか。
 オルフェウスがアポロンから与えられた竪琴を、大神ゼウスは他の誰にも持つ事を許さず、空へと上げた。
 それは母の嘆きを見かねての事なのか、或いは、たぐいまれなる才能を持った弟への最大限の褒賞の代わりであったのか。
 何れであれ、ヒュメンには与り知れぬ事であるし、今更、どうでも良い事でもあった。

「これから夜が来る度に、おまえの竪琴を見られるのだね」

 神の世界と人の世界に引き裂かれる事もなく、弟がこよなく愛したそれを、毎夜こうして目にする事が叶う。

「それは、幸せな事だと思うかい? 我が弟よ」

 ヒュメンは目を細め、呟いた。
 ……いつか、こんな日が来るとわかっていた。
 兄弟とはいえ、弟は常命の者。神である己のように、永遠の命は持たない。
 だからこうしていずれは、いなくなった弟を偲び、愛別離苦の苦しみに身を焼く事になるだろうと、ずっと以前から覚悟をしていた。人の世界で弟と出会い、彼を愛し慈しむと決めた、その時から。
 ――それでも。
 その日は、こんなに早く来る筈ではなかった。
 流れ行く時と同様に、零れ落ちる命を留める事ができないのなら、せめて弟には、安らかな眠りを与えたかった。亡失の苦しみではなく、生の幸福を噛み締めながら、安寧と共に、その生涯を閉じて欲しかった。
 あんな風に、絶望に身を削り取られて、孤独に命を失うような事を、許すつもりはなかったのだ。それなのに。
 どうして、私の言葉を聞き入れなかった。
 おまえを愛していたのに。おまえが望むならば、この手で、どんな幸福でも与えてやれたのに。

「否……」

 最後に弟に振り払われた手を、ヒュメンは、そっと握り締める。

「私が、あの時、禁を犯してでも止めていれば」

 たとえそれが、神々の眷属として許されざる行いであったとしても。それでも今、こうして悔恨に苛まれる事に比べれば、どれだけ救われただろうか。
 後悔など意味はないとわかっていて、それでも考えずにはいられないのだ。

「申し訳ありません、母上。すまない……オルフェウス……」

 瞼を伏せたヒュメンの瞳から、一筋の涙が落ち、頬を伝った。それもまた彼の弟と同じ、ヒュメンが、生涯にただ一度流した涙だった。

「私ももう、これ以上は泣かないよ。オルフェウス」

 零れた涙をそのままに、男神は悲しげに微笑む。
 なぜならこの世界に、これ以上の悲しみなどもう、存在する筈がないのだから。最愛の者の為に流すそれが、己にとっての、終焉の涙。

 そっと笛を唇に当て、ヒュメンは吐息を音楽となして、ただ密やかに、弔いの音色を大気に乗せる。
 どのような美麗な音調も、この胸の悲嘆には及ぶまいし、どんなに巧みな演奏も、この哀しみを表す事などできはしない。それでも、奏でずにはいられないのだ。それが弟に贈れる、最後のものであるならば。

 華麗な音楽に彩られた、一人の青年の人生は、主役の退場と共に幕を閉じる。愛する者に捧げた命は、彼を愛した者に見送られ、無音の水底に沈みゆく。
 どんな音も届かぬ深い深い真蒼の寝床で、無音という旋律を共にして、瞑目した詩人はただ静謐と共に、眠る。

4. Eurydike <完>