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 船は、まるで濁流に飲み込まれた木の葉の如く上下左右に揺れ動いた。
 巨人の背丈ほどもある波が、幾度も船体を打ち、獲物を巨大な渦の中へ飲み込もうと試みる。
 頭上を覆う暗雲の中を稲光が走り、天高くそびえ立つ柱が、海面を貫いた。
 ごうごうと唸る風は罪なき水夫を次々に海底へとさらい、叩き付ける雨の粒は、鏃(やじり)のごとく厳しく身を打つ。

 目を開けている事さえ難しい豪雨の中、歌声が木魂する。
 風雨の叩き付ける音、腹を殴るような雷鳴が絶え間なく鼓膜を震わす中で、その歌は、なぜか不思議と、誰の耳にもはっきりと聴こえた。
 歌声が高まるほどに嵐は激しさを増し、英雄達を船ごと海の中に引きずり込もうと挑んでくる。



 ――セイレーンの魔歌。
 船の周囲に見え隠れする影は、今やその姿を隠そうともしなかった。
 ぞっとするほどの美しさを持つ乙女が、翻弄される船を見つめて嫣然(えんぜん)と微笑む。
 それに気付いたアタランテが弓に矢をつがえ、渾身の力で引き絞った。
 確かな技量をもって、疾風のように射られた矢。
 しかしそれは次々と暴風に巻かれ、雷に打ち落とされた。
 水面に浮かぶ海の魔女、セイレーンは、今や大気と空と海を支配下に置き、英雄の価値ある命を欲して死の歌を歌い続ける。
 彼女の歌は聴く者の精力を奪い、名だたる英雄達は、次々と地に膝をついた。
 彼らを嘲笑うかのように、魚の尾をひらめかせて波間を踊る彼女には、剣も、槍も届かない。

「く……なんとしたこと……」

 船の縁に捕まったヘラクレスが、悔しげに呻いた。
 いかな勇者と言えど、敵に一太刀浴びせる手段を封じられては、なすすべがない。
 彼は腰から斧を引き抜き、渾身の力でそれを投擲(とうてき)する。
 鍛え上げられた筋肉が躍動し、僅かに一瞬、魔歌の呪縛を打ち破った。
 斧は雷光を弾き、一直線に魔女の元へと向かう。
 一際歌声が大きく響き、勢いを増した風が、それを押し戻そうとした。
 そこに北風の兄弟が翼で風を送り、対抗する。
 けれど斧の刃は、セイレーンの肌を、僅かに傷付けたのみに終わった。
 一瞬ピクリと、美しい眉を戦慄(わなな)かせた異形の乙女は、人間の抵抗に激昂したように、かっと目を見開き、空を仰いで声を張り上げる。
 次々に落ちた落雷が、英雄達と船とを何度も襲った。


 ……それらの戦いを、船室から甲板へと、辛うじて這い出したオルフェウスは、魅入られたように見つめていた。
 否、正直に言えば、足がすくんで動けずにいた。
 話に聞いてはいても、オルフェウスは今まで、あのような怖ろしい魔物にも、こんな猛々しい戦いにも、遭遇した事はない。
 それらは、今まで彼が生きてきた優雅なだけの世界には、決して存在し得ないものであったから。
 けれど。

 ……雷が翼を掠めたのか、空を飛んでいたカライスが、船の舳先に叩き付けられる。
 オルフェウスの目が見開かれ、その手が、しっかりと竪琴を握った。
 大気を鳴動させる魔女の音色。
 それが、今彼らを苦しめている最大の敵に他ならない事は明らかだ。そして、それに戦いを挑める者がいるとすれば、それはこの船の中で、自分しかいない。

 ……青年は意を決すると、吹きつける風雨に抗うように、竪琴の弦に指をかける。
 幾つかの音を爪弾き、そして、ゆっくりと指先を動かし始めた。
 今まで何度も、何百回も繰り返した動作をなぞって。
 そして唇を開き、音に合わせて声を上げた。
 それまで、セイレーンの歌声だけが響いていた海域に、初めて異なる響きが混ざった。魔女の歌声に負けまいと、オルフェウスは懸命に喉を震わせる。
 生への渇望と死へのいざない、激しい争いを繰り広げる、質を異にした二つのハーモニー。
 けれどそれは同時に、魂を奪われるほどに美しい。
 今や戦いは、オルフェウスとセイレーン、ただ二人だけのものと成り果てていた。
 船に乗り込んだ数十人の英雄は残らず無力となり、辛うじて意識を保っていた者は、自らの命運の掛かった、この世のものとも思えぬ麗しき勝負の行方を、固唾(かたず)を呑んで見守る。

 押し寄せる大波にも似た音の渦に、オルフェウスは幾度も押し流されそうになりながら、懸命に抗った。
 自らが敗れた時、それが自分自身と、この船の命運の尽きる時だ。
 けれど過去、幾つもの船を、勇者の命を、死の海に沈めてきたセイレーンの歌声は若者のそれを圧倒し、ともすれば青年のそれを掻き消しにかかる。
 一瞬は弱まった嵐が、再び力を増し、アルゴー号をただの木片へと変えようと襲い掛かった。
 ……ついにこれまでかと、諦めが心を過ぎったオルフェウスの指先から力が抜けかけた、その時。
 不意にその脳裏を駆け抜けたものがあった。
 それはつい先程口にした、自分自身の言葉。

 ――確かに僕には、貴方がたのように剣を振るう事も、弓を射る事もできはしない。だけど……。
 オルフェウスの瞳に光が戻り、彼は俯きかけていた顔を、ぐっと持ち上げた。
 目の前には荒れ狂う海。白く飛沫く波。
 鐘の音(ね)のように響き渡る女の歌声と、雷(いかずち)の閃光。
 今にも打ち砕かれ、海の藻屑と成り果てそうな船。
 くずおれかけていた膝を立たせ、オルフェウスは、渾身の力で背筋をぴんと伸ばした。




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