そうだ、僕が……僕がやらなければ。
オルフェウスの瞳に、力強い意思が満ちた。
それは、歴戦を潜り抜けてきた勇者達もかくやと思えるほどの、強い光輝の顕現だった。
自分だけが、この船と仲間の命を救える。その自負が、彼を再び奮い立たせる。
背中を叩く力強い手、明るい笑い声、温かい眼差し。
それらは、オルフェウスにとってはいつまで経っても慣れず、うっとうしいと一度は振り払ったものではあったけれど。さりとて、簡単に失って良いものでもまた、なかった。
――母上……。
一度目を閉じ、心の中でオルフェウスは、未だ見知らぬ母の名を呟く。
――我が身の半分は、天上の歌姫カリオペの創り賜うたもの。ならば僕が、この世の何者にも負ける事など有り得ない!
オルフェウスの瞼(まぶた)が、開いた。
竪琴を爪弾く指先は力を取り戻し、一時は掻き消されかけた歌声が、再び朗々と天地に響き渡る。
オルフェウスは歌った。
喉も裂けよとばかりに。
地獄絵図のような光景とはまるで場違いな、力強くも神々しい旋律が、大気をあまねく席捲(せっけん)する。
まるで音の伝わる場所から、清浄な天の空気に浄化されていくように。雲の狭間から光が差し込むように。
最初僅かなものでしかなかった燭光は、瞬く間に力を増し、逆らう全てを、掻き消すのではなく押し包む。
圧倒的な音の奔流、これから己が切り開いて行く海原を真っ直ぐに見据えながら、オルフェウスはただ、歌い続けた。
全ての者が、その歌声に魅了される。……そう、呪われし海の魔女さえもが。
――僕は負けない。
オルフェウスは、心の中で呟いた。
……それは、祈りではなかった。願いでもなかった。
それは彼にとって、確定された未来でしかなかった。
この世の何者にも負けない音を、己が作る。
気付けば、世界は光で満ちていた。
あれ程までに荒れていた海は嘘のように静まり、頭上を覆っていた暗雲は、もはや一片たりとも見当たらない。
全ての鎧を引き剥がされたセイレーンが、憎々しげにオルフェウスを睨みつける。けれどオルフェウスはもう、それを恐れたりはしなかった。
「僕の、勝ちだ」
セイレーンは口を開き、何かを言ったようだった。
それは言葉のようにも、音のようにも聞こえた。
美しい顔が束の間、悲しみと屈辱に歪み、そして、乙女は身をひるがえすと、再び海の底へと身を沈めていった。
それをオルフェウスは、何とも言えない気持ちで見つめる。
彼女は確かに、この船を沈めようとした憎い魔物ではあったが、その魂をも揺るがす美声に込められた哀しみは、確かに、聴く者の胸を強く打った。
そんなオルフェウスの肩を、豪腕が叩く。
「おい、いい加減にしてくれよ」
振り返りもせずに、憮然とした声でオルフェウスは言った。
予想通りの太い笑い声が、耳を叩く。
「ははは、俺の斧が、かように細い弦に負けようとはな」
参ったぞ、そう言いながらも微塵(みじん)も悔しそうではない英雄を振り返って、オルフェウスは軽く肩を竦めた。
「まったく、大したもんだ」
「ほらね、言っただろ?」
「オルフェウスの歌は素晴らしい」
身を起こした女狩人が苦笑し、翼をはためかせた兄弟が追随(ついずい)する。
そんな中、彼らとは異なる色をもって自らを見つめる視線に気付き、オルフェウスは、そちらへ目を向けた。
「小僧、図に乗るなよ。これしきの事で、貴様を認めたわけではない」
相変わらず冷やかに睥睨(へいげい)する視線を、オルフェウスは正面から受け止めた。
「テセウス」
不愉快そうな顔で何事かを言いかけたヘラクレスを、オルフェウスは片手で制した。
テセウスは、構わず彼らに背を向ける。
そのまま去り往こうとして、しかし途中で一度、彼は足を止めた。
「……だが、貴公の歌に救われた事は事実。その事にだけは、礼を言う」
それだけを言い、去って行く背中を一瞥(いちべつ)して、アタランテが軽く笑った。
「素直じゃないね」
「いいさ。別に人に褒められたくてやった訳じゃない」
オルフェウスは素っ気無く言う。
自分はただ、己自身の力を試したかっただけだ。
セイレーンと戦ったのも、船を救ったのも全て、言うなれば自分のため。
「……いや……そうじゃないな」
「オルフェウス、行こう。どうした?」
立ち止まり、独り言を呟くオルフェウスに気付いて振り向いた英雄に、首を振る。
「何でもないさ」
「オルフェウス、早く」
「さっきの続きを聴かせて」
「仕方ないな。わかったよ」
いかにも不本意という顔を装いながら、オルフェウスは先を行く仲間達の背中を見る。
決して口に出しはしないけれど、ただ、心の中で呟いて、小さく笑った。
こんなのも、そう悪くはないなと。
彼の手の中に抱えられた竪琴が、太陽の光を浴びて、まばゆい程にきらめきを放った。
2. Seiren <完>