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 その日、オリュンポスに程近い緑深い村は、祝福に沸いていた。
 この世界に住む者ならば知らぬ者などいない英雄アルゴナウタイの一人が、まさに今日、ここで結婚式を挙げるという栄誉によって。


「エウリュディケ!」

 木々の生い茂る森林を縫うようにして、一つの声が木魂する。
 男にしてはやや高く、繊細なその声は、けれど聞く者に無視する事を許さない、不思議な強制力を備えている。

「エウリュディケ!」

 彼の声が形作る音は、まるで一つの旋律のように、流麗な響きとなって、木々の洞に残響を残す。
 その声に誘われた動物や精霊達が、何事かと顔を覗かせるが、彼の目に、それらは僅かも映っていない。
 その瞳が捜し求めるのは唯一人。
 彼の愛しい花嫁の姿のみだった。

「エウリュディケ、どこだい?」
「ここよ。……ここにいるわ、オルフェウス」

 不意に彼の耳を、鈴を振るような声がくすぐった。
 振り返った青年の目に映ったのは、ふわりと、まるで風のように軽々と地面に降り立つ一人の娘。
 青年、オルフェウスの表情が安堵に緩んだ。以前の彼しか知らぬ者が見れば、おそらくは驚きを隠し切れないだろう、柔らかな笑みを浮かべて。

「良かった。すっぽかされたのかと思ったよ」

 そう言って、彼はたおやかな乙女の手を取った。

「まあ、臆病ね。あなた英雄なのでしょ? オルフェウス」

 稚い風情で、娘はくすくすと笑う。

「だったら尚の事さ。花嫁に逃げられた英雄なんて、こんなに喜劇の題材に相応しい話は他にない」

 皮肉げな口調だけは変わらなくとも、その瞳も表情も、これ以上を望めないほどの愛しさと幸福とに輝いている。柔らかな笑みを浮かべて、オルフェウスは娘の髪に接吻した。
 己の本心を他人に悟らせる事を好まない彼が、これ程までに無防備な自身を晒す相手は、恋人を含めて、この世に二人きりしかいない。

「さて、行こうか? 森の乙女。つまらない詩人の花嫁になってくれる気があるのならね」

 芝居がかった調子でそう言うと、オルフェウスは、優雅に一礼した。おどけた仕草は、この青年には珍しい。彼の方もまた婚礼を前にして、普段と違った様子を見せる程度には浮かれている。
 娘はそれを見て、楽しげに笑った。

「あなたが言ったのでしょ。そうでなければ、ここにいないわ」
「それは良かった。駄目と言われたら、僕は自慢の喉で森中の精霊を眠らせて、君をさらって行かなくてはならなくなる」

 瞳を見交わして、これから夫婦となる若い男女は、微笑を浮かべた。


 ……オルフェウスの恋人、エウリュディケは、元々はこの森に住む精霊の一人だった。
 そんな彼女とオルフェウスが出会ったのは、彼がアルゴー号での冒険を終え、再び身一つで、諸国を渡り歩いていた時だ。
 旅の途中、ふとした事から足を挫いてしまったオルフェウスは、折悪しく、深い森の中で動けなくなった。
 とはいえ旅をしていれば、そのような困難は付きもの、実は楽天家の気質を併せ持つオルフェウスは、その時も、あまりその事を重大に受け止めず、動けないなら動けないで仕方ないと、その場で竪琴を構え、歌を歌い始めた。
 母親譲りの美しい声と、見事な技巧を凝らした竪琴の音色は、森の端々にまで響き渡り、それを聴いた動物達が何事かと顔を出す。

 オルフェウスにとっては見慣れた光景を、最初彼は、気に留めなかった。
 けれどもその中に、一人の乙女の姿を垣間見たような気がして、オルフェウスは思わず歌うのを止めた。
 その途端、視界の端を幻のように掠めたドレスは、掻き消えるように見えなくなってしまう。
 残念そうに肩を落としたオルフェウスは、もう一度竪琴を手に取って歌い始めた。
 すると風に乗って、再び誰かが側にいる気配が伝わって来る。
 オルフェウスは、今度は歌を歌うのを止めなかった。
 まるで怯えた仔兎のように、そろりそろりと、相手が近付いて来る。
 オルフェウスがそちらに目を向けずにいれば、安心したのか、その気配は動かなくなり、そのまま心地好い音楽にうっとりと身を任せ始めたのがわかった。
 段々と楽しい気分になり、オルフェウスは姿を見せてくれない観客に向かって、幾つもの曲を惜しげもなく披露した。
 そしてふと気付けば、幻のような気配は消え去り、足元には森の果物と薬草とが置かれていた。
 まるで、美しい曲を聴かせて貰った礼だとでもいうように。

 オルフェウスは微笑み、それから来る日も来る日も、その森に通っては歌を歌うようになった。
 雄々しい英雄譚、庶民の間に伝わる舞踏歌、そして甘い恋の歌。
 彼が歌えば、幻の乙女は、必ずそこに現れた。
 その姿は相変わらず、ろくに見せてはくれなかったが、彼女が毎日、わずかずつでも自分への距離を詰めてくれるのが嬉しかった。
 互いの目を見交わす事もなく、笑みを交わす事もなく、言葉さえ掛け合う事もないままに、二人の男女は幾日も、森で共に時間を過ごした。まるで、睦まじい恋人同士のように。
 そうするうちにオルフェウスは、相手に近付きたいと思っているのが彼女だけではない、自分もまたそうである事に気付く。
 こんな事は初めてだった。
 彼女が自分の前に姿を見せてはくれないだろうか、そう願うと同時に、自分もまた正面から彼女に向き合いたいと思う心を抑えられなかった。

 ――君の名前はなに?
 歌の中に織り交ぜたオルフェウスの問いに、ためらいがちな、細く麗しい歌声で、乙女は答えた。


 その日のうちに、オルフェウスは彼女への愛を謳う歌を書き上げた。
 そして翌日、その歌を携え森へと向かったオルフェウスは、全ての思いを込めて、歌った。
 天高く、大地の隅々にまで届けよとばかりに朗々と。
 その日、可憐な森の乙女、エウリュディケは、初めてオルフェウスの前に姿を現した。……これまでのどんな想像よりも、実際に目にしたその姿の、なんと愛らしく美しかった事か。
 彼らは一瞬にして、恋に落ちていた。

「僕の知り得るどんな言葉をもってしても、今の君の美しさを表す事はできそうにない」

 花嫁の衣装に身を包んだエウリュディケの花冠に、オルフェウスはそっと触れた。晴れがましさに満ち溢れたその顔に、新妻となった少女は微笑みかける。

「……愛しているわ、オルフェウス。ずっと傍にいて」
「勿論さ。神に立てた誓約が破られる事はない」

 いかに生涯を誓ったとて、それは絶対ではない。
 不幸な結婚をした者など、この世には数え切れないほど存在する。けれど自分達はそうはならないと、オルフェウスは確信と共に思った。
 冷たく凍てついた自分の心を溶かした唯一の存在、エウリュディケ。彼女への愛が薄れる瞬間など、想像する事すら恐怖でしかないのだから。

「それを証明してみせようか――ほら、祝いの歌が聴こえるだろう?」

 年若い夫婦の誕生を祝って、村人達の歌う祝婚歌が、朗らかに木魂している。

「……だけどね、僕にはもう一人、あの歌を歌って欲しい人がいるんだ」

 不思議そうな顔をする少女に、彼は笑ってみせる。
 その相手は結婚を祝う神にして、母を同じくする唯一の兄、ヒュメン。
 母には一目たりとも会った事がなく、父王とも疎遠であったオルフェウスにとって、事ある毎に天上より姿を見せては様々な事を教え、導いてくれたヒュメンは、兄であると同時に、師とも父とも呼べる存在だった。
 エウリュディケに出会うまで、オルフェウスが心を開く事のできた唯一の相手、それが兄ヒュメン。
 結婚の神である兄が祝婚歌を歌ってくれれば、この婚姻は永遠に幸福に満ちたものとなるだろう。のみならず、他ならぬ愛する兄に祝福の言葉を贈られる事は、元来からの、オルフェウスの切なる望みでもあった。

「兄さんは、君を見て何と言うだろう。……ああ、楽しみだな!」
「ええ。私も、早くお会いしたいわ」

 愛するあなたの、お兄様に。
 エウリュディケの細い指先が、オルフェウスの頬に触れる。オルフェウスは、その指をそっと取ると、自分達を祝う人々の群れの中へと、晴れ晴れとした顔で分け入って行った。


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