3

 オルフェウスがその音色を耳にしたのは、宴もたけなわの頃である。
 赤ら顔をした村人達が、そこかしこで祝いの杯をくみ交わす中、どこからともなく聴こえてきた笛の音。
 それは紛れもなく兄、ヒュメンが、オルフェウスの元を訪れる度に聴かせてくれた、その音に相違なかった。
 不思議な事に、その旋律は、オルフェウス以外の誰にも聴こえてはいないようだった。
 なぜかその時、オルフェウスは、新妻にさえ告げる事を思い至らず、一人、祝いの席を離れて歩き出す。


 音に導かれて向かった先は、森の中。澄んだ水を湛える、小さな泉のほとりである。
 宴の喧騒はここまでは届かず、辺りは深閑と静まり返っている。
 そこには薄灰色のローブを頭から被った青年がたたずみ、ただ静かに、笛の音を奏でていた。
 そしてオルフェウスが来た事に気付くと顔を上げる。

「……オルフェウス」
「兄さん! やはり来てくれたんだね」

 満面に喜色を浮かべて、オルフェウスは兄に近寄る。
 幸福と喜びに心を満たしたオルフェウスは、それ故に、いつになく硬い兄の表情に気付かなかった。

「きっと来てくれると思っていた。さあ早く来て、僕と妻に祝福の歌を歌ってください」

 兄の祝福を疑わないオルフェウスに、けれどヒュメンは、ゆっくりと首を横に振った。

「兄さん?」

 その時ようやくオルフェウスは、ヒュメンの様子が、自分の知るいつもの兄とは違っている事に気付く。
 常に明るく闊達な色を宿す双眸(そうぼう)は、今は憂いを含んで、オルフェウスを見つめていた。

「オルフェウス、私はおまえの結婚を祝う為に来たのではない。婚儀を止めさせる為に来た」
「兄さん!」

 思いも寄らぬ兄の言葉に、オルフェウスは驚いて、その名を呼んだ。

「今ならまだ間に合う。さあ来なさい。私と一緒に、この場を去るんだ」

 しばし茫然とした風情でヒュメンを凝視していたオルフェウスの顔に、驚愕と悲しみ、怒りが浮かび上がる。

「兄さん! なぜそんな事を」
「私にはわかるんだよ、オルフェウス。彼女との結婚は、おまえに不幸と哀しみしかもたらさないと」
「そんな事があるはずがないだろう? 僕は彼女と出会って、こんなにも幸せなのに」
「今はそうだろう。だがそれは、いつまでも続かない。エウリュディケと結婚すれば、この先おまえは、この世で最も深き辛苦を知る事になろう」

 婚姻を司るヒュメンには、新たに結婚した夫婦の先行きが、自ずと見える。
 そしてそんな彼の目に映った、弟と、その妻の未来を包むのは闇。
 ヒュメンの祝福の力をもってしても打ち消す事の叶わない、黒々とどこまでも深く続く、冥府の洞穴の如き底のない深淵だった。

「私は、おまえには――おまえにだけは、不幸になって欲しくはないんだ」

 ヒュメンは、そっと目を伏せた。
 神と人という大きな隔たりがあってさえ尚、ただ一人と、そうヒュメンが思い定めた兄弟。
 ……最初、ヒュメンがオルフェウスに会いに行ったのは、神々にはよくある気紛れからだった。
 無限の力と寿命を持つ彼らは、常に退屈を紛らわす手段を求めている。ヒュメンもまたそうして、母を同じくする人間の弟を、半ば物見遊山で見物に行った。
 当時既に神童と、神の琴の紡ぎ手と呼び声の高かったオルフェウスの技量に興味を抱いたという事もある。
 現れたヒュメンを、幼いオルフェウスは、その美しい瞳の中に映し出した。子供らしい表情など、そこには微塵(みじん)も見受けられず、凍てついた、氷のように冷たい視線を向けられ、軽い気持ちで彼の元を訪れたヒュメンは、少なからぬ驚きに見舞われた。

「あなたはどなたですか? 見たところ、人にはあらざる御方のようですが」

 はきはきとした物言いも、とても幼い子供のそれとは思えず、その少年が他人に対し、固く心を閉ざしている事は明らかだった。
 その瞬間に感じたものを、どう表せばいいのか。
 最初の一言を発した時、既にヒュメンの中に、単なる退屈しのぎでここまで来たという意識はなくなっていた。

「私かい? 私は、おまえの兄だ。オルフェウス」

 視線を合わせるようにして膝をついたヒュメンが笑って言うと、それまで作りもののようだったオルフェウスの表情が、瞬間、驚きに崩れた。
 大きく見開かれた目に、初めて年相応の子供らしさを見て取って、ヒュメンは更に笑みを深くする。
 この人間を、ただ一人の弟を愛しいと思う気持ちが、己の内から泉のように湧き出したのはその時だ。
 ……それから今まで、ヒュメンはずっとオルフェウスを見守って来た。最初は困惑していたオルフェウスも、彼に優しく接し、様々な事を教えたヒュメンに少しずつ心を開き、信頼を寄せるようになっていった。
 そんなオルフェウスの変化を見るにつけ、ヒュメンの愛情は膨れ上がり、この弟に、人の身で得られる最大限の幸福をと、自然に望むようになっていた。
 自分は婚儀の神、もしもおまえが結婚をするなら、この世の誰にも負けないほどの祝福を授け、高らかに祝いの歌を歌ってやろうと。


 ……けれども弟は、そんなヒュメンの心とは裏腹に、決して選んではいけない花嫁を選んでしまった。
 彼女の不幸な運命は、共に寄り添う弟までも、その渦中へと引きずり込んでしまうだろう。ヒュメンだからこそわかってしまう、悲運の運命だった。

「さあ来るんだ。神々に婚姻が聞き届けられてしまえば、最早私にも、どうする事もできない」

 こうして忠告を与える事さえ、本来であれば許されない、己の領分を越えた事だった。たとえその先に、どんな災厄が待ち受けていようとも、ヒュメンにはそれを見守るより他はない。
 幸福な婚姻には惜しみない光と祝福の歌を贈り、不幸な婚姻の場ではただ、消えかけた松明を手に、黙して佇むのみ。
 それが大女神ヘラより与えられた、彼の役割である。
 それを曲げてまで婚姻を止めに来たのは、ひとえにオルフェウスの身を案じるが故に他ならない。これまで神の血族として、与えられた役目を忠実にこなしてきたヒュメンの理性が、初めて感情に負けたのだ。弟への尽きぬ愛ゆえに。

「オルフェウス」

 ヒュメンがその手を、オルフェウスに向かって差し出した。幼い頃、そうして彼を導いてやったように。
 だがオルフェウスは兄の手を、音を立てて振り払った。

「幾ら兄さんの言う事でも、それだけは聞けない」
「……オルフェウス」

 批難を込めた目でヒュメンを見つめるオルフェウスの面差しは、最早幼い子供のそれではない。

「……兄さんなら、きっと祝福してくれる、僕の選んだ相手を認めてくれると、そう思っていたのに」

 オルフェウスの声には、誰より信頼していた兄に裏切られたという失望と悲しみの色がにじむ。 

「オルフェウス、私はおまえを救いたいのだ! モイラの紡ぐ悲嘆の運命が、おまえを捉える前に!」
「彼女を失う以上の悲しみなど、僕にはない!」

 オルフェウスは胸に手を当て、叫ぶように訴えた。
 ……生涯で初めて見つけた、己の心をさらけ出す事のできる唯一の人。心清き森の乙女。
 それを捨てろと、同じくらい大切な兄が言う。
 エウリュディケに関する事でなければ、オルフェウスはきっと、兄の言葉を聞いただろう。
 それほどに、ヒュメンはオルフェウスにとって、かけがえのない信頼を寄せる相手だった。
 けれども。

「僕はエウリュディケを妻にすると、そう決めたんだ」
「オルフェウス!」

 オルフェウスは、兄の視線を振り切るように背を向けると、身を翻して、その場から走り去った。
 追う事もできず、ヒュメンは立ち尽くす。
 美しい顔にはただ、諦めだけが満ちていた。

「オルフェウス」

 微かな呟きが、深閑とした静寂(しじま)を伝う。
 弟の名を呼ぶ声は、深く憐憫と哀切を纏っていた。
 ヒュメンはオルフェウスの兄である。
 だがそれ以前に、一人の神でもあった。
 彼の力をもってすれば、オルフェウスとエウリュディケを力尽くで引き離す事も不可能ではなかっただろう。
 あるいはそれがオルフェウスにとって、最も幸福な道であったかもしれない。
 けれどそれが解っていても、ヒュメンには、それだけはできなかった。
 一度結婚を誓った男女の仲を引き裂く事は、婚儀を司る神として、許されざる大罪である。
 いかなる場合であろうとも、その立場に相応しく毅然(きぜん)とし、公正であろうとする母カリオペの血が、ヒュメンにそれを許さなかった。
 たとえ愛しい弟の行く末が、その目には見えていたとしても。
 ……ヒュメンは悲しげに目を伏せて、静かに、笛を唇に当てた。
 細く美しい音色が、夜の闇を伴奏として木魂する。
 それはあたかも、彼が歌う事を許されなかった祝婚歌の代わりのように、切々と流れ行くばかりだった。


3. Hymen <完>


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