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 明るい森の中に、竪琴の音が響いている。
 そして透き通るような歌声が。
 二つの音色は、重なり合い、絡み合い、ゆったりと澄んだ大気を震わせた。
 まるでこの世に生れ落ちた時から、一つのものであったかのように絶妙に絡み合い、一つの完全なハーモニーとなって。相手がいなければ、自分すら世界に存在する意味がない、そういいたげに。

「エウリュディケ」

 ふと、竪琴を爪弾いていた青年が、手を止める。

「なあに? オルフェウス!」

 途端、振り返った彼女が向けてくる、輝くような笑顔に目を細める。太陽よりもまぶしいそれに微笑み返して、オルフェウスは、愛する妻に手を差し伸べた。
 軽やかな足取りで近付いてきたエウリュディケが、そっとオルフェウスの指に、自分のそれを重ね合わせる。

「素敵な歌ね。オルフェウス」

 星のように輝く瞳が細められ、桜色の唇が、柔らかな笑みをはく。
 ドレスの裾をひるがえし、隣に腰掛けた彼女のほっそりとした指先に、オルフェウスは口づけた。

「そう思うかい?」
「ええ。とても! やさしくて、あたたかいわ」

 そう言うと、エウリュディケはそっと、オルフェウスの肩に頬を寄せて来た。
 そんな彼女の華奢な腕を抱いたオルフェウスが、小さく笑みを零す。

「オルフェウス?」
「ああ、すまない。何でもないよ」

 オルフェウスは妻を安心させるように、その柔らかな髪をすいた。
 もしも僕の歌が、やさしくてあたたかいなら。……それはきっと、君がくれたものなんだ。
 心の中で、オルフェウスは独白する。
 柔らかくて、あたたかくて、この上なく無邪気で、そして純真な森の乙女。――エウリュディケ。
 オルフェウスが見つけた、この世でただ一つの宝石。
 彼女ほど自分を愛してくれる存在はいない。そして自分ほど、彼女を愛する者もまた。
 以前とは大きく様変わりした自分の心を、オルフェウスは感じていた。
 エウリュディケに出会い、誰かを真に必要とする喜びを、オルフェウスは知った。彼女に巡り会う為に、これまでの道程はあったのではないかとさえ思う。
 目の前が開けた気がした。彼女と恋をした事で、オルフェウスの歌には愛が満ち、世界は鮮やかな色彩に彩られた。

「ありがとう……」
「オルフェウス」

 どうしたの。
 そんな風に覗き込んで来る澄んだ瞳が愛しい。
 オルフェウスは妻の額に、そっとキスをした。
 はにかむように笑うエウリュディケはいとけなく、小鳥のように愛らしかった。
 彼女の為ならば、例え地獄の悪魔と戦えと言われようとも、オルフェウスは決して怖れはしないだろう。
 たとえ誰にいさめられても、敬愛する兄にとがめられたとしても、この手を離す事などできなかった。宝石のようなこの一瞬に勝る幸福など、世界のどこにも、あろうはずはないのだ。

「何でもないよ。さあ、もう一度歌っておくれ。僕の為に」

 そっと手を握ると、エウリュディケは笑んで、頷いた。
 オルフェウスは、太陽神アポロンからのたまわり物である竪琴を軽く撫で、新たな音色を奏でる。
 ただ、誰より愛するたった一人の少女の為だけに。
 エウリュディケの喉から、細く柔らかな歌声が溢れ出した。
 それだけで、なお一層の輝きが、二人を包む世界を満たす。
 彼女もまたオルフェウスの為に、生き生きと愛を歌った。
 見交わす視線に、微笑む唇に、幸せが満ちていた。
 彼女の存在だけが、オルフェウスに光をくれたのだ。



 愛していたのだ、と声は歌う。
 この世でただ一人の人に巡り会った奇跡。
 語れと言うならば、幾らでも語ろう。
 歌えと言われたなら、喉が枯れるまで。
 彼女を想う心に際限はなく、己の全てをかけて訴える言葉に果てはない。
 深く切なく竪琴を奏で、歌声を響かせる吟遊詩人を、玉座の王は、怜悧な瞳でじっと見下ろす。
 ……詩人は歌った。
 彼女と出会った日、愛を育んだ日々、結婚した日の喜び、そして――最期の日の悲しみを。


 その日、あたたかい陽だまりの中で、エウリュディケは目を覚ました。
 双眸を縁取る長いまつげが震え、微かな逡巡と共に、静かにまぶたが持ち上がる。
 眠りから覚めると同時に、彼女は、にっこりと笑んだ。
 朝の訪れと共に、今日もまた、素晴らしい一日が始まろうとしている。
 眠るオルフェウスを褥に残して、彼女は家を出た。
 夫と共に暮らす家は、エウリュディケにとって何より大切な、帰るべき場所であるけれど、その周囲を囲む森林もまた、慣れ親しんだ故郷に等しい。
 やわらかな下生えを踏んで、彼女は生まれたての空気を胸いっぱいに吸い込む。
 そして、いつものように散歩に出た。
 行き先は、森の泉のほとり。彼女のお気に入りの場所。そして、そこにいれば必ず、あの人が見つけてくれる事を知っているから。
 唇からは、愛する夫が彼女に捧げた歌が、自然と流れ出している。
 麗しい竪琴の音はなくとも、清らかな森の空気と小鳥のさえずりが、その代わりとなって歌に華を添えた。

「オルフェウス……」

 桜色の小さな唇から、うっとりと、愛する夫の名が零れる。
 彼女は心底、幸福だった。
 この森を、あの人が訪れてくれた。自分と出会ってくれた。愛してくれた。
 自らに与えられた至福に、目がくらみそうになる。澄んだ泉に素足を浸すと、ひんやりと感じる水の清冽さが心地よい。瞳を閉じたエウリュディケは、しばし、その感覚に身を委ねた。
 森の乙女である彼女にとって、こうして木々に囲まれ、彼らの囁きを聴くことは、何にも勝る喜びだ。
 けれど今は、それよりもっと気持ちの良い音楽を知っている。

「早く来てはくれないかしら」

 彼女はただ胸をときめかせ、夫を待った。
 その耳に、かさりと小さく草を踏むような音が聞こえ、彼女は歓喜と共に振り返る。

「オルフェウス?」


 オルフェウスが目を覚ました時、妻の姿は、家の中のどこにもなかった。
 緑に縁深い精霊である彼女にとって、早朝の森林の散策は日課のようなものだ。
 そしてオルフェウスが、そんな彼女を探しに行く事も。それをエウリュディケが待っている事も。
 妻の悪戯な行為に笑って、オルフェウスは竪琴を手に、家を出た。きっとまたエウリュディケは、あの、お気に入りの泉の傍で寛いでいるに違いない。
 そしてオルフェウスを見つけたら、いつものように顔を輝かせて、飛び付くように駆け寄って来るのだ。
 オルフェウス、と名を呼びながら。
 自分に捧げる愛情を、溢れんばかりに湛えたその声は、幾度聴いても聴き飽きない、心地好い音楽のようだった。オルフェウスにとっては何にも勝る、至高の音色だ。

「今日はどんな歌を作ろうか?」

 そんな事を考えながら、オルフェウスは森を歩く。
 彼女の好きな、森の動物達の歌? 優しく雄大な木々の歌?
 それとも、昨日よりももっと素敵な愛の歌だろうか。
 オルフェウスの指が紡ぎ出す喜びの音楽は、彼女が側にいる限り、枯れ果てる事はない。

「エウリュディケ! どこだい」

 大切な竪琴を抱え、オルフェウスは妻を探す。
 森の中から、彼を呼ぶ声は聞こえなかった。
 ……ふと、オルフェウスの胸に、黒い染みのような、一点のかげりが落ちる。けれど、不安という名を持つそれを、彼は振り払った。
 今の自分は幸福だ。その中に、微かな影が差す事すらも想像できようはずがない。
 世界で最も尊い宝が、いつも傍らで微笑んでいてくれるのだから。

「エウリュディケ!」

 もしかしたら彼女は、待ち疲れて眠ってしまっているのかもしれない。それとも、いつかのように姿を隠して、自分を驚かせるつもりだろうか?
 微笑みながら、泉へと続く道の木立を掻き分けたオルフェウスは、その刹那、心臓が凍りつくような衝撃に見舞われた。

「エウリュディケ!」

 彼の愛しい妻が、泉の岸辺に倒れ伏している。
 その傍らに駆け寄り、膝をついて細い体を抱き起こしたオルフェウスは目をみはった。
 ……エウリュディケからはもはや、生命の鼓動は感じられず、その肌には、温もりの欠片すらも残っていなかった。
 閉じられた瞼が開かれる気配はなく、その瞳が彼を映し出して、嬉しげに輝く事もなく。

「嘘だ……」

 微かに、音になりきらない声が、オルフェウスの喉から洩れた。彼自身、意図せず零したその呟きは、常の美声とは似ても似つかぬ程に掠れている。

「そんな、ばかな……事が」

 未だ悪夢を見ているような面持ちで、オルフェウスは、エウリュディケに手を伸ばした。
 震える指先で、そっと冷えた頬を撫で、いつもそうするように、柔らかな髪を梳く。
 けれど親指でなぞった唇が、オルフェウスを至福に導くあの音を紡ぐ事は、ついぞなかった。
 その時、彼女の剥き出しの白いくるぶしに残る、小さな二つの跡に気付く。ぽつりと残った、小さな噛み跡。

「毒蛇……?」

 毎朝そうしていたように、エウリュディケはここに来たのだろう。そして歌を歌ったのだろう。
 オルフェウスが彼女を想うように、彼女もまたオルフェウスを想い、顔を輝かせて。
 いずれ自分を探しに来る夫を想って、彼女はどんなに幸福だっただろうか。
 けれどそんなささやかな幸せは、毒蛇の、たった一噛みで、あまりにも容易く終焉を迎えた。



「そんな……エウリュディケ……エウリュディケ!」

 オルフェウスはかたく妻の体を抱き締め、幾度もその名を呼んだ。まるで自分のぬくもりを分け与え、その身に再び、生命の灯火を点そうとするかのように。
 やさしくあたたかいと彼女は言った。
 その言葉がもしも本当ならば、己の持つそれら全てを、彼女の体に注ぎ込んでも構わなかった。
 しかし、エウリュディケの心臓が、再び鼓動を打つ事はなく。
 目の前で起こった事が信じられずに、オルフェウスはただ、呆然自失していた。
 彼女が自分を置いていく筈などない。例え、何があったとしても。
 そう約束したではないか。二人は、ずっと一緒だと。
 ……だったらなぜ、腕の中の体は目覚めない。
 目を開けて微笑んで、自分の名を呼んではくれない。
 じわじわと底冷えするような冷気が、心の奥から這い上がる。
 それが絶望という名で呼ばれるものだと知っていて、だからこそオルフェウスは、それを正視する勇気を持たなかった。
 そんな事をすれば、自分の心も体もばらばらに砕け散って、もう二度と立ち上がれはしない気がした。
 彼女がもう傍にいないなんて、認められる筈はない。

「エウ……リュディケ……」

 ぼんやりと呟いたオルフェウスの頬を、不意に、温かなものが流れ落ちた。

「これ、は」

 頬に触れた指先を濡らす、透明な雫。

「涙……が」

 他人事のように、オルフェウスは呟いた。
 僕は泣いているのか。
 今まで、ただの一度も、涙など流した事はなかった。
 自分の中にも、そんなものが存在したのだという事が不思議で、けれど今はそんな事さえどうでもよく。

「……あぁ……」

 引きつれたような嗚咽おえつが、オルフェウスの喉から溢れた。一度流れ出た涙は留まる事を知らず、冷たくなった妻の肌の上に、次々に雫が滴り落ちる。

「……ぁ…あ……!」

 エウリュディケをかき抱くオルフェウスの耳に、過去に聞かされた、一つの声が反響した。
 ――エウリュディケと結婚すれば、おまえはこの世で最も辛い痛みと悲しみを知る事になろう。
 その静謐な響きが、ひどく冷酷に感じられた。