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　海の底に、一人の女の泣き声が、切々と響いている。
　寄せては返す波の揺り返しにも似たリズムを刻み、それはいつまでもいつまでも、永劫に途切れる事なく続いた。
　絶望と悲しみに彩られた彼女の嘆きは、海の水を伝って幾千里、幾万里の距離を渡る。
　そしてそれを耳にした者全てに、等しく涙を流させた。

　――ああ、だから……だから……行ってはならぬと申したものを……。

　――なぜ、この母を置いて。

「アキレウスよ、なぜ母の言うことを聞かなんだ。この母の嘆きが聴こえてか……」

　おまえがこの世におらぬのならば、この身も、この心も、形骸(けいがい)なく砕け散ってしまう。
　生涯、泣き暮らす事しかできぬ。



「ならぬ！　ならぬぞ、アキレウス」

　室内に、荒々しい足音が響いた。深海と同じ色をした長い髪が、波打つようにゆらりと揺れる。彼女は、花のように美しい顔を歪めて、息子へと歩み寄った。
　愛しい愛しい、彼女の、たった一人の息子。
　好いてもいない夫との間に儲けた、この息子の事を、彼女はそれは可愛がっていた。自分に与えられる全てのものを与えても、何も悔やまぬほどに。

「行ってはならぬ。行かないでおくれ…アキレウス」

　少女の如きおもてに涙を溢れさせ、彼女は、自分よりもずっと背の高い息子を抱き締めた。

「おまえにもしもの事あらば、妾(わらわ)は正気ではいられぬ」
「母上……」

　泣き濡れた母の頬を、たくましい手が撫でた。
　五十人を数えるネレイデスの中でも、海の王ポセイドンの妃アンピトリテに並ぶと讃えられる美しさ。
　……まさに深海の真珠の如きその美貌を、英雄アキレウスは、目を細めて見つめた。

「どうぞ、そんな悲しい顔をなさらないで下さい。花のような笑みこそが、母上には相応しい」
「アキレウス。そう思うのならば、どうかここにいてたもう」
「いいえ母上。その心配が杞憂であったこと、我が武勲によって証明致します。母上の御心の憂い、この私が取り除いてみせましょう」
「アキレウス！」

　どうしてもわかってはくれない息子に、海の乙女、テティスは非難するような声を上げる。

「そなたよりも大事なものは、この母にはないのじゃ。なぜそれがわからぬ」
「それは私とて同じこと。だからこそ、私は母上の為にも、英雄でいたいのです。私に、この不死の肉体を授けてくださった母上の為に」

　鎧に覆われた逞しい肉体に手を当て、アキレウスは笑う。その顔には、輝くばかりの自信が溢れていた。

「わかっておる。それでも、此度の戦だけは…。不吉な予感が離れぬのじゃ。おまえに死の影が差すのが見える！　非情なるモイラの鋏が、おまえの命を……！」

　気も狂わんばかりに息子の身を案じるテティスの言葉を、しかしアキレウスは取り合わなかった。
　不死身の英雄アキレウス。
　剣で突かれても、矢に貫かれても、ステュクスの神水に守られし身には傷一つつける事はできない。
　そんな自分の命を、一体何者ならば、おびやかす事ができようか？
　全ての者が、今か今かと待ち望んでいるのだ。勇者アキレウスの来訪を。

「私の勝利は、民と、愛する母上の為に――」

　そう言って笑った息子の顔が、今も脳裏から離れない。

「ああ、アキレウス！　あれほどに止めたのに……」

　変わり果てた姿で帰還した息子の棺を前に、海の女神は、昼も夜もなく泣き暮らした。
　その悲しみの声は、英雄の死に沈む大地に、果ては神の国にまで切々と響き渡った。


「なんて悲しい声……」

　一人の女神が呟いた。
　彼女の名はメルポメネ。音楽と芸術の女神ムーサの一柱である。
　同じく、その傍らに腰掛けたエラトが呟いた。

「本当に。わたしまで悲しくなってしまいそうだわ」

　常に少女めいた笑顔を絶やさないその表情が、悲しげに曇った。

「確かにお気の毒ではあるけれど、わたくし、あのような態度は感心しないわ」

　そう言って柳眉をそびやかすのはクレイオ。常に毅然とした態度を崩さない彼女は、周囲の状況も何もお構いなしに、自分の悲しみに閉じ篭もるテティスに不快感をあらわにする。

「ですけれど……。きっとそれほど、悲しんでいらっしゃるのですわ。あの方の胸は、今にも嘆きで潰れてしまいそう」
　姉妹の一人、エウテルペが、悲しげに目を伏せる。
「同情すべきか否かはともかく、誰かが彼女に言ってやらねばならないと思う。テティスの悲哀は世界を冒している。今や、海も大地も悲しみでいっぱいだ」

　一人、冷静な口調で言ったのはウラニア。
　彼女は長い衣の上に座り、指先で自身の渾天儀(こんてんぎ)をもてあそぶ。

「だけど、悲しみを止めさせるなんて不可能ではなくって？」

　可愛らしく小首を傾げたテルプシコラが言った。
　泣くのを止めさせてどうにかなるものなら、大神ゼウスなりポセイドンなりがどうにかしただろう。
　けれど、息子を失った悲しみを癒す事など、何者にもできはしない。
　そしてテティスがアキレウスの遺体の傍に座り込んで動かない限り、英雄の死によってもたらされた絶望は、世界を侵食し続ける。

「何とかならないのかな？」
「どうやって？　ゼウスでさえ、此度の事では頭を痛めておいでなのですよ」
「そうだな、心が浮き立つような、楽しい歌を歌ってあげたらどうだろう」
「およしなさい。それでどうにかなるものではないわ」

　喜劇楽曲を得意とするタレイアを、ポリュムニアがたしなめる。
　今、どんなに明るい歌を聴かせようとも、テティスは決して、楽しい気分になどなれはしないだろう。
　……アキレウスは海の乙女テティスが、掌中の珠のように大切にしていた息子だ。
　結婚も、子を産む事も、彼女は望まなかった。
　海の中をゆったりとたゆたう泡のように、気ままに暮らす事こそが、唯一のテティスの望み。
　ずっとそのまま、心も体も幼い少女のままで、自由に歌い暮らす事をこそ、彼女は心底から願っていた。
　……故に、思わぬ事から無理矢理結ばされた婚姻は、彼女にとっては業腹でしかなかった。それから今まで、テティスが夫に情を傾けた事はない。
　けれども、アキレウスの存在だけは、例外だった。
　自らが産んだその子を見た瞬間から、テティスは息子を、こよなく愛した。これほどの愛情が、己の中に眠っていたのかと、空恐ろしくなる程に。
　テティスの内側に湧き上がった、アキレウスへの愛情は、留まるところを知らなかった。
　この子を失う事など耐えられない。そんな気持ちから、彼女は息子に不死の体を与え、スキュロス島で隠すように育てた。
　――そうまで慈しんだ子を失って、女神らしく毅然としてなどいられる筈もない。
　たとえ周囲が、それをテティスに望んだとしても。
　どんな慰めも、進言も、今の彼女の耳には届かない。
　歌に心を織り込み歌い上げるムーサ達だからこそ、テティスが上げる嘆きの声に潜む、底知れぬ絶望までもを読み取ってしまう。あれほどの悲しみ、あれほどの慟哭を打ち破るほどの歌は、この世の何者にも歌えはしまい。
　……その時、それまで黙ってテティスの泣き声に耳を傾けていた一人の女神が、伏せていたまぶたを上げた。
　太陽のように、月のように輝く麗しい瞳が、束の間哀しみを宿して瞬き、開かれる。
　すい、と優雅な仕草で立ち上がったその女神に、妹達が一斉に目を向けた。

「カリオペ姉様」
「……お姉様」

　それぞれに表情を曇らせた妹達を見て、女神達を束ねる長姉は微笑んだ。

「お姉さまが、あの方を慰めて差し上げるの？」

　いつものように、おっとりとした笑みを浮かべ、いとけなく言ったエラトの頬に、カリオペはそっと触れる。

「いいえ」

　わずかに目を伏せたカリオペに、姉妹の幾人かが驚いた顔を見せた。

「今のテティスを慰める事など、この世の誰にもできはしないでしょう。けれど……」

　いつになく、ためらいがちに言葉を紡ぐその様子に、ウラニアやポリュムニアは内心小首を傾げた。長姉カリオペは、いかなる折りにも公平で実直で、また誰に対しても慈愛に溢れ、姉を慕う姉妹達のみならず、他の多くの神々からも信頼篤かった。
　常に物腰柔らかながらも毅然とした態度を崩さぬ彼女が、こういった迷いを見せるのは珍しい事だ。
　けれどカリオペが逡巡を見せたのは僅かな間のことで、すぐに長姉の表情は、いつもの聡明なそれに戻った。

「私が、テティスにお目通り願いましょう」
「姉上、本当に？」

　ええと頷いて、カリオペはほっそりとした指で、タレイアの髪を軽く撫でた。

「彼女があの様子では、いつまでもアキレウスの葬儀を始められないわ。海の王女の血を引く英雄に対して、それはあまりにも礼を失すること」

　さらりと衣擦れの音を立て、カリオペは視線を彼方へと向ける。そして、いずれ劣らぬ素晴らしい才を持つ妹たちを振り向いた。

「あれほどに愛された英雄なのですもの。それに相応しい歌で送ってさしあげなくては」

　神の国には今も、海の乙女の啜り泣きが響いている。
　姉姫の言葉に姉妹達は顔を上げ、そして恭しく頭を下げた。