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父も、姉妹も、召使いも、誰一人として寄せ付けず、彼女は息子の棺にすがって泣いていた。
愛息が変わり果てた姿で帰ってから、一体幾日が経ったのだろうか。時間の感覚は既になく、無限の涙と悲しみだけが、彼女の周囲を満たしている。
……その肩に、そっと白い指先が触れた。
微かに身を揺らし、悲哀に怒りを混ぜた瞳が、手の主を見やる。
「誰じゃ。妾の事は放っておくがよい」
「そのような訳にはまいりません」
「……オリュンポスの歌姫か」
顔を上げ、カリオペの姿を認めたテティスは、沈みきった声で、帰るがよい、と呟いた。
カリオペは、ゆっくりと首を振る。
「それはできません」
「そなたが何をしに来たのかはわかっておる。だがアキレウスは妾の子、そなたらの葬送曲など必要ない」
テティスは白魚のような指で、棺を撫でた。
「この子は妾のものじゃ。死出の旅に送り出す事などできようものか……」
どこにもやらぬと少女の顔で言いながら、髪を振り乱す。嘆きに沈む痛々しい姿を、カリオペは痛ましそうに見た。
「おまえを守ってやれなんだ母を許してたも……」
棺に縋り、テティスは悔恨と懺悔を口にする。
おまえに不死の体を与える時、あのような迂闊(うかつ)をせねば。戦いに行こうとする息子を、なんとしてでも止めていれば。
床に崩れ落ちるテティスの肩に、女神が手を置く。
「もう、おやめなさい、テティス」
「そなたに妾の気持ちなどわかるものか!」
テティスは激昂した。
「この子は妾の命ぞ! 長く手元には置けなんだが、それでも愛しておったのじゃ。そんな息子を喪った母の気持ちなど、お主にはわからぬ」
テティスの嘆声を受け止めるカリオペの瞳に、憐憫とは違う哀しみが生まれた。
「わからないと、仰るのですか」
カリオペが目を伏せる。その双眸に過ぎった、深い悲しみの色に、テティスは、はっと息を飲んだ。
束の間、女神の瞳と声を、深い悲哀が支配する。
「……わかりますとも。愛する我が子を喪った辛さに、変わりなどございましょうか」
ですが、とカリオペは静かに言った。
「人の目から見れば、どんなに力があったとしても。それでも私達にも、どうにもできない事はあるのです」
たとえ、不死の肉体を与えてやれたとしても。
たとえ、神すら魅了する楽才を授けてやれたとしても。
……それでも、零れ落ちる命を、掌に留める事はできなかった。
それが世界の理というもの。
大神ゼウスにすらゆるがせない唯一の存在、それこそが、モイラの紡ぐ運命というものに他ならないのだろう。
カリオペは穏やかに、テティスの手を撫でた。
「ですからどうか、精一杯に生きた彼らを讃えてあげましょう。心穏やかに送り出してあげましょう。私達には、そうする事しかできないのです。アキレウスを悲しませてはなりません」
透き通った宝珠のような涙を、カリオペは、指先で拭った。
なんて美しい涙なのだろう。
そうして素直に息子を思い、我を忘れて泣く事のできるあなたが、少しだけ羨ましい。
……そんな気持ちを胸の奥底に隠して、女神は、優しく微笑した。
「悲しみましょう、テティス。そしてその悲しみを、終わりにしなければならないわ」
艶やかに潤んだ瞳を、美しき天界の歌姫は真摯に見つめる。
「だって私達は神なのですから。……私達の手には、零れ落ちそうなくらい多くのものが乗っているのですから。あなたが大切なのはアキレウスだけであったのかもしれないけれど、あなたを大切に思っているのは、彼だけではないのよ」
世界の端々から、英雄の死を悼む声が聞こえる。
そして愛する息子を喪った母テティスを哀れむ声も。
「誰もがアキレウスの死を悲しんでいる。聞こえるかしら? あなたの子は、なんと偉大な英雄だったのでしょう」
それまで悲痛なばかりだった海の乙女の顔に、ようやく、異なる感情が浮かぶ。
それは我が子への無償の愛と、誇らしさ。
「……そう思うかえ。天の歌姫よ」
テティスの泣き濡れた顔に、つられたように、微かな笑みが昇った。
カリオペは頷く。
「ええ、勿論です。あれほどに多くの人間達の声が、それを証明している」
「アキレウスは、讃えられるに足る英雄じゃったか」
「ええ」
「ならば……ならば歌っておくれ。哀れんでやっておくれ。妾の、ただ一人の息子を」
テティスは愛しげに棺を撫で、その頬に幾つも涙を零した。
その背中を優しく抱いて、カリオペは頷く。
「ええ――。歌いましょう。あなたの子がどれほど愛されていたか、その死に、どれほどの者が悲しんだか。そして送り出してあげましょう……」
華奢でやわらかな体。
涙に潤む、大きな瞳。
丸みを帯びた、少女のような輪郭。
己の感情を御する事のできない、幼げでいとけない、その心。
……けれどそれでも彼女は、紛れもなく母なのだ。
己が産み落とした命を愛し、慈しみ、その死にこれほどまでに絶望して。
それはカリオペが、そうありたかった、もう一つの姿だったのかもしれない。
だからこの歌は、貴女の為に歌いましょう――。
哀しげに微笑んで、カリオペは、唇を開いた。
少し前まで、孤独な泣き声だけが響いていた空間を、異なる旋律が満たす。
それは切なく、悲しく、何よりも愛に溢れていた。
去り行き、消えていった命を、優しく腕の中に抱くように。
揺り籠を揺らすような優しさで、心を撫でる。
いつしかテティスは泣く事も忘れ、女神に見入っていた。
この世の何者をもとりこにしてやまない、麗しいその声。
それは痛みに満ちていた海を大地を、優しく癒す。
忘れる事はないのだと、ただ、その悲しさと愛しさを、胸に抱いていてもいいのだと、そう諭すように。
――愛していてもいい。
――愛していてもいい。
そうすればきっと、その子はあなたの中に生き続けるでしょう。あなたが産んだその子は、あなたの中に戻って、そうしてずっと微笑み続けるでしょう。
カリオペの瞳が、もう一人の母を映し、そして細められた。
……そっと手を握られたまま、テティスはいつしか、涙を零していた。
けれどそれは先刻までの、ただ悲しいばかりの涙とは違っている。深い安堵にも似た安らぎが、真綿のようにその身を包んでいた。
全てを肯定された喜び。
誰よりも我が子を愛していた、その情愛を認められたが故の嬉しさに、誇り高い海の王女の心が、輝きを取り戻していく。
「アキレウス……」
波のうねりにも似た音律の洪水に身を委ねながら、テティスは目を伏せる。
いつでも母を案じてくれていた息子の顔が、閉じた瞼の裏に浮かんだ。
悲しい顔をしないで。花のような笑みこそ、母上には相応しい。
そう言って笑った我が子の顔が。
「妾が笑えば……おまえは嬉しいか。アキレウス……」
流れる涙をそのままに、テティスは微笑んだ。
おまえは妾の誇り。おまえこそが、この母の全て。
ならば母は、そこに一点の曇りすら落とす事なく、おまえを英雄として、送り出してみしょう。
母の為にも英雄でいたいと、そんな健気な事を言ったおまえの為にも。
「それで良いのであろう……。歌姫よ」
謳い続けるカリオペが微笑んだ。
「けれど、もう少し……もう少しだけ……」
甘えるように寄り掛かってくるテティスを抱き締めて、カリオペは歌い続けた。
今はまだ悲しみに揺れる、愛深き母の心を慰める為に。